
宵闇が深くなっても眠らない街、新宿。夜が深くなると、通常であれば次第に街灯の数は少なっていく。だが東京の中心にある新宿、この街だけは特別だ。むしろ時間が経つごとに、街中の喧騒は深まっていく。誰もかれもが何かに急き立てられるかのように生き急ぐ。
そんな人々のエネルギーは、一夜明けるても依然として熱を帯びている。まるで何事もなかったかのように、また新しい1日が始まる。でもどこか昨日の続きを呈しているようにも思える。街中には至る所に散らばる缶やお菓子袋などのゴミ。あちらこちらには、それらの「朝食」を狙わんとするカラスたち。基本的に彼らは群れない。

私も改めて、朝の新宿を歩きたくなった。新宿の朝の起点は、新宿三丁目にある「珈琲貴族 エジンバラ」である。ここは、24時間営業のお店でサイフォンにてじっくりコーヒーを入れることで有名。せっかくなので、名物の貴族ブレンド、タマゴサンドイッチを一緒に頼んだ。


腹ごしらえをした後、エジンバラの近くを歩いてみるとデパートがいくつも並んでいる。その裏を覗いてみると割と退廃的な匂いがする。そしてよく見てみると、ビルの構造自体もなかなか複雑な形のような気がする。どこかしらで人の気配は感じるのに、少し路地裏に入り込むとすぐに方向感覚を失ってしまう。

そしてもう少し歩くと、映画街があり行き着く先はかの有名な歌舞伎町である。歌舞伎町は流石に夜の時と比べると、人は全くと言ってよいほどあまりいないがそれでもどこかしらの胡散臭さは感じる。やっぱり夜のにおいが至る所に染み付いているからではないかと思う。

時代は遡り、1900年代初頭の新宿というのは今とは全くイメージが違った。元々はエリートが住む街として、人々の間には洗練された場所として評価を受けていたのである。ところが1940年始めころに第二次世界大戦が勃発し、奇しくも東京大空襲により新宿の街も焼け野原になってしまったのである。
そして1950年代、焼け野原の跡地にスケートリンクやら劇場やらゲームセンターやらが作られる。時を同じくして、遊技場の近くには駅が開通し益々新宿の街を盛り上げることになる。その後時間が経つごとに、新宿は人々のるつぼと化するようになるのだ。
それから1960年になるとホストクラブが次々と開店する。そこから新宿はどちらかというとアングラな世界へとシフトしていくのだ。疲れきった大人たち、そして遊び足りない若者たちが夜な夜な集まる場所へと変化を遂げていくのだ。

朝、新宿の街は前日の無責任な大人や若者によって荒らされた姿を晒す。それでも「適度な汚さ」で済んでいるのは、早朝からせっせとゴミを拾い集めるボランティアの方々の存在によるところが大きい。おそらくこの人たちがいなければ、いつまで経っても新宿の歌舞伎町という街はただの混沌とした場所で終始していたことだろう。

付け加えて、歌舞伎町のビルとビルの隙間は注意深く目をこらすと結構面白い。普段気づかないような薄汚れているけど、どこか理路整然とした矛盾した風景が広がっているのである。思いがけず、心惹かれるような隙間を見つけたときにはちょっと笑みを隠しきれないのである。

まだまだ注目すべき場所はいくつもある。早朝に行くと、割とシャッターが閉まっている場所を多く見かける。そしてシャッターには大体、夜若者がやんちゃしたと思われる落書きを見つけることができるのだ。そこでちょっとシャッター切ってみると、なぜかひどく心がグラグラする。たぶんInstagramで挙げたとしても、評価をされることのない世界観。


東口から西口に歩いていき、駅のガード下をくぐってすぐに現れるのが思い出横丁。この場所は、かつて俗称ションベン横丁があった場所である。歌舞伎町と同じように空襲によって焼け野原となった後、闇市「ラッキーストリート」として栄えた。各駅の中心地として新宿にはたくさんの人たちが集まり、密かに当時手に入りにくかった日用品や食材を買い求めたのである。
その後焼鳥屋やもつ焼き屋などの店が数多く営業することとなった。今ではその名残として、昭和の風景を色濃く受け継いだ「思い出横丁」ができるに至ったのである。今ではこの場所は、サラリーマンが仕事帰りにふらりと立ち寄る場所として活況を帯びている。ちなみに昼飲みもできるから驚き。

人々が集まり続ける限り、新宿はそのエネルギーを飲み込んで今日も眠らず動き続ける。(編集:KAZU、SPECIAL THANKS:SUZUKA)
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